35歳からエンジニアを志し、現在38歳の社内SEとして勤務しているからあげです。
※エンジニア系の記事もアップしますのでもう少し待ってくださいね(^^;)
最近暑すぎて短パンとTシャツで出勤したくなるからあげです。
自分の心が狭いなと感じたエピソードをご紹介しますwww
帰宅ラッシュ時の電車内の1コマ↓↓

電車内の図なのですが、基本的に空白の箇所は満員であるとします。
この状況で私と乗降位置と座席の間に男性が立っていたのですが、私との間1㎡くらい(“ココ”の位置)でしょうか。その空間に成人女性2名とその間には子供2名挟んだ状態で手すりを取りにきたのです。そうその女性の背中と私の右体側部はほぼゼロ距離、というか押してくるわけです。
私が左にずれると、元々いた男性もなんやねん的な雰囲気で若干嫌そう。
お気付きだろうか。。。私は元々電車が苦手でいっぱいいっぱいの状態で、密着されると嫌な雰囲気が出てしまうのです。今考えると申し訳ない雰囲気を出してしまったなと思うわけです😭
私の左にいる方々に少しずれるように言うとか仕草で伝えるなんかできたはずだと(泣)
小さいなー私。。。

いつも思うのですが、女性専用車をもっと増やせないものなのでしょうか・・・
切実ではないのですが、電車ですごく気を使います。
子供さんだけ手すりの位置にねじ込むとか俺だったらやるかなとか思っちゃう部分が消極的過ぎるのでしょうか?ここすごく気になるwww
何はともあれ満員電車はゼロ距離なわけですよ。
電車ネタをこれからも記載しますね(^^;)
さて早速本題の犠牲という言葉が必要なのかという論点で持論を展開します(^^;)↓↓↓
犠牲(sacrifice)とは
辞書では
一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものをささげること。
よく聞くのは何かを犠牲にしないと何かを手に入れることはできない。ということ。
果たしてそれは自然の摂理として処理してよいものなのだろうかと思うわけです。
よく恋愛ドラマで見る大学進学に伴って、志望大学が違って別れるであったり、結婚している夫婦が何かを実現するために夫婦関係を解消するなど。
必要か?と思うわけです。
全くわからないわけではありません。
例えば勉強時間を確保するために、いつも見ていたテレビ番組をみることを我慢する。これも一種の犠牲を払う行為だと思います。
人と別れる必要までは正直ないと思います。その程度なんかいと思ってしまいます。
例えば実家の家族と過ごしてきた故郷を出ることになったとします。
そこで実家の家族と絶縁を切り出しますか?ということ。有り得ないですよね??
つまり本当に愛しているのであれば、家族間の犠牲の心は不要なはずなのです。
そこで頭を過る言葉→「二兎(にと)を追う者は一兎をも得ず」
同時に2つのことを成し遂げようと欲張ると、結局どちらも失敗に終わるという戒めらしい。
比率が大事なのかなと思います。
仕事10家族0→これは絶対あかん(この時が続いた時があるので猛省しています。。。)
時々仕事9家族1、時々家族10→このように柔軟に家族との時間を大切にする必要がある!!
ずっと家族の時間を10仕事0でやっていきたいですが、それはそれで現実味のない話かなとは思います。(しかしこれくらいの思いがあった方が良いと思う。)
二兎を得る必要があるのです。
仕事と家族の両立。
どっちが大事なのか?
それは家族。
それを守るために仕事で奮闘する。
生きるということは本当に色々なことがあると思います。うれしいこともあれば悲しいこと。
人と出会ったり別れたり。
何かを得たり何かを失ったり。
長い人生のなかで良い時があれば悪い時もある。
その起伏があることは生きている以上、自然の摂理として整理されるのです。
産まれてきた以上、始まりと終わりの間の期間をどう生きるかを決めていく必要がある。
長いか短いかはそれぞれありますが、必ず最後は自然に還る。
本田圭佑も言っていますよね、どうせ死ぬんです。って。
良くも悪くも誰もあなたを止めることはしないのです。
その一度しかない人生をどう過ごすのかは、自分。そして相手それぞれが意思を持っているのです。
今の感情に囚われていては良くない。という感じの結論になりそうですが、私は正論で片付けたくないのです。
敢えて私の持論を書くと、思いっきり囚われて、しっかり迷って苦しむ必要があると思います。
大切なものは大切なのですから😭

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